3.羽音

羽音(はおと)とは、辞典的に表現すると「飛ぶことができる生命体が飛行のために羽をはばたく際に発する空気との摩擦音のこと」である。最近では、恐竜にも羽毛が存在したという進化上の話題でにぎやかだが、飛ぶことができる動物といえば、おおむね鳥と昆虫に限られる。例外はコウモリやモモンガなどの哺乳類やトビトカゲなど爬虫類のわずかな例のみである。

われわれ人間が最も嫌う羽音といえば、やはり夏の夜、耳元で執拗にささやく蚊の羽音ではなかろうか。何故あんな小さな体から耳障りな音を発する必要があるのか不思議な気がするが、これにはちゃんと訳がある。昆虫学者の研究によれば蚊はこの羽音でなんと雄雌間の会話をしているのだそうである。蚊の種類によってその周波数は異なり、また雄雌でも違っているため、大切な愛の会話を間違えることは無いらしい。蚊以外の昆虫でわれわれに更なる恐怖を覚えさせるのはハチの羽音である。ハチの羽音は、その毒針の脅威と組み合わされることで、巣を攻撃して蜜や幼虫をねらうクマや人など哺乳類の外敵に対抗する巧みな防衛戦略なのではないだろうか。

ところで、昆虫といえば古来より誰にも身近な存在である蝶の羽音を聞いたことがお有りだろうか。小学校低学年だったころの私は、街中でも見かける大型のアゲハチョウやクロアゲハを毎日のように追いかけていたのだが、これらの蝶の羽ばたきは以外に弱々しく、その羽音を聞いたことが無かった。ところが同じ蝶でも、もっと筋肉隆々のマッチョなグループがいる。絶滅が危ぶまれる希少種で日本の国蝶でもあるオオムラサキの仲間である。大学生の時分、東京都と神奈川県の県境を流れる多摩川流域の自然調査に参加した折この蝶に初めて遭遇した。その飛んでいる姿は、蝶というよりもむしろ鳥のような逞しさとスピードを兼ね備え、力強く羽ばたく度に「キュ!、キュ!」と大きな音まで発しているではないか。

羽音と言うと、やはり昆虫よりも鳥の方を思い浮かべる人が多いかもしれない。街角に集まり忙しく動き回るドバトの羽音は誰でも思い浮かべることができるはずである。ところが、鳥にはまったく羽音を立てないグループがいる。

夏の夕暮れ時、長野県菅平高原で色付きはじめたススキ原を一人歩いていた時のことである。突然、頭上に灰色の影のような気配を感じた。驚いて見上げると大きなフクロウがこちらをからかうように数回、頭のすぐ上を繰り返し滑空しているではないか。あのするどい爪で本気で攻撃されたらとウサギやネズミの身になって心配する間もなく、彼あるいは彼女は悠然と近くの林へと飛び去って行った。

ほんの数十秒間の出来事であったかもしれない。しかし目の前で繰り広げられるダイナミックなフクロウの翼の動きとは裏腹に何の音も聞こえてこない、そこだけ異次元に入ったような不思議な感覚が今でも忘れられない。フクロウの仲間は、暗闇の中でも音のする場所を立体的に認識できる特殊な耳を持つことでも知られている。もしかしたらこうしたフクロウの神秘的な能力を通して、洋の東西を問わず昔の人々は、彼らを森の守り神として尊ぶようになったのではないだろうか。